Translated by momo

* Kiss of the Spider-man *
US Elle August 2003


 トビー・マグワイアの映画でのこれまでの持ち味は、繊細で、時には苦悩にひどく苛まれる若者、というところにあった。『シービスケット』で彼は、大酒飲みですっかり喧嘩ばかりするようになってしまった男、騎手のレッド・ポラードを演じている。ローリー・エイブラハムが彼の自宅を訪ね、マグワイアの人物像に迫る。

 私達の先祖が脳ミソというものを獲得する以前、彼らには内蔵というものがあった。ウロコに覆われた、コブだらけの彼らの体を、いかに思考や感情が走り抜けようとも、歴史に残るトカゲや他の爬虫類にあったのは内蔵である。こんにち、科学者たちは内蔵を『第二の脳』と呼ぶ。しかし、人間には、第一の脳よりも大きな内蔵を持つ者もいるのだ。彼らは腸の暗いうねりから、また胃の中で激しく沸き上がる泡の中から、より多くの情報を密かに得る。俳優であるトビー・マグワイアは、内蔵で感じとる事ができる人間、本能的なところで感じ取れる才能に恵まれている人間の一人だ。

 350万ドルのビバリーヒルズの自宅で、彼の年に見合ったソファに座り、(家屋の詳細には立ち入らない事になっている、そう彼の広報係はわたしに注意したが、それは本当のところたいした問題ではない:部屋というものからこの俳優についてわかることは、彼、または彼のインテリア・デザイナーが考えるにふさわしい装飾様式に比べても、ごく僅かだ。:それは「人間のオスがここに住んでいる」ということぐらいなのだから)マグワイアは、『サイダーハウス・ルール』の、私の好きなシーンの撮影時のことを思い起こしている。その作品は1999年にジョン・アーヴィングの原作を脚色した作品で、マグワイアは30年代という時代に福祉施設の医者(マイケル・ケイン)の弟子、また「息子」として成長する孤児の少年、ホーマー・ウェルズを演じている。ホーマーは10代の頃から赤ん坊の分娩を手伝っていたのだが、彼はすっかりひきこもった人生を生きていたのだった、シャーリーズ・セロン演じるところのキャンディ・ケンドールと出会うまでは。

わたしが好きなこのシーンは、ホーマーとキャンディのところで、波と風が激しいメイン州の浜辺でキャンディが岩の土手を駆け上ていったあとを、マグワイアが遊び戯れてついていくという、古風だが魅力的なシーンだ。マグワイアは彼女を追いかけ、後ろから不意に抱きつく。身を震わせながらも彼女の首筋にぴったりと体を寄せ、彼女の女らしいスカートの下に入り込むチャンスをつかもうとせいいっぱい近付き、触れあいを求め、しゃにむになる。 ”(監督の)ラッセ(ハルストレム)が言ったんだ、「荒々しくだ、激しく抱き締めるんだ」って。それで、僕はそうした”マグワイアは思い出す、
”そうすることで、そこに、ある危うさのようなものが生まれたんだ。心をぎゅっと掴まれるような、強烈なものが。それから・・”
マグワイアは深くため息をついた、ハアァァ・・・、安堵のため息を。彼がついには彼女と肌と肌を合わせ、その体に手を触れられる機会が与えられた、ということに感謝するため息を。今まさにわたしの目の前で、彼は喉のくぼみから胃のあたりへと指をなぞらせる。
”それから、僕にはわかったんだ、彼女が開かれているのが”
ゆっくりと彼は続ける、
”触れ合うためにね”

”なるほど・・それで”
先を促すように私はつぶやいた、いささか焦れったい口調だったかもしれない。
”それで、こう感じたんだ、ああ、信じられない!ここには何かすごいものがある!ってね。”
マグワイアはお終いにした。
もし私がタバコを吸う人間だったら、一服したくなっていただろう。



**少年は男になる**

 もしもマグワイアが愛と欲望を胃袋で感じるなら−−それに、喜びの感覚だけでなく、より多くのものを胃袋で感じるのなら、−−逆説的だが、彼は「無表情」と呼ばれる表情で観客にその感情を伝える。『サイダーハウス』、批評家に絶賛された『アイス・ストーム』、『ワンダーボーイズ』、それに大ヒットを飛ばした『スパイダ−マン』で、彼は繊細過ぎて持ちこたえられないぐらいの大きな力を持ってしまった典型的なアウトサイダー、苦悩する若い青年というものを作品の中で完璧に表わしている。スクリーン上での、彼の持つ並外れた静けさ−−道端でじっとしたままのトカゲのような−−にもかかわらず、マグワイアは、どうにかして脳が知覚と感覚に一致するよう持っていこうとする。おそらくは、大きく見開かれた青い瞳で”耳を傾けて聴く”やり方、または『スパイダ−マン』で彼に愛されるメリー・ジェーン(キルスティン・ダンスト)、それに『アイス・ストーム』のリベッツ(ケイティ・ホームズ)の側からは、ほとんど予想できないぐらい微細過ぎるような唇を動かすやり方で。

 彼の最新作は、しかしながら「より大きな」ものを求めているように見える。確かに言えることだが、これは彼が初めて成長した大人というものを演じる作品だ。大恐慌時代、厳しい運命を迎えたアメリカの、国民に称えられる対象となる、全てのハンディをものともしない非運の競走馬の実話、2001年のローラ・ヒレンブランドのベストセラー『シービスケット』を脚色したもので、マグワイアは、騎手のレッド・ポラードを演じている。レッドは感情の振幅が激しい男で、ヒレンブランドはこう要約している。
:彼の感情は不安定で、怒るときは荒々しく激しく、喜ぶときには祝杯をあげるほどになり、おどけるときは、皮肉を含み、嘆き悲しむときは、底知れず深いところまで行ってしまう、と。
 しかしマグワイアは、’フルーツ・オブ・ルーム’の半袖Tシャツとナイロンのスエットパンツを着込み、平底サンダルを履き、(彼はこのインタビューの後、トレーナーと訓練するつもりなのである、ひどく憔悴して傷付いた騎手を演じるために、彼は既に20ポンド以上は落としていた。しかし彼は今『スパイダ−マン2』撮影の真っ最中で、それを満足に証明出来るぐらい、たくましい腕をしていた)こう言った、レッドの激情は、自分が後込みするようなものではなかったと。
”実際、ホーマー・ウェルズは怒りを持っていたんだよ。すべて表面には出ないところでね。だけど、彼は怒りで煮えくり返っていたし、あの監獄から逃げ出さなくちゃならなかった。彼は激怒してたんだよ。”マグワイアは強調して言った。
”僕の演じたすべてのキャラクターは、感情に動かされる人生を送ってるよ。いくらかは、レッドより強い感情を持つこともあるんだ、そうさ、だけど、その違いは、人にはわからない。”

 『シービスケット』の監督、ゲイリ−・ロスは、また、1998年のマグワイアが出演した作品『プレザント・ヴィル』の監督でもあるが、慎重に、だが異なる意見を述べている。 ”彼はいつも無垢なキャラクターを演じて来たんだ、私の作品でもね。レッドは酒飲みの、ケンカっぱやいボクサーだ。”ロスは語る。
”私は、彼のためにその部分を書いたよ。なぜなら、マグワイアにもまた、レッドに通じる自己矛盾があるからね。:彼は繊細だが、同時にまた信じられないくらいタフでもあるんだ。彼は逆境にあってもすぐ立ち直るし、動じたりしないし、喧嘩にも後込みしない。”
マグワイアは変化する準備が出来ていた、と、この俳優のとても親しい友人だと自認するロスは言う。
”トビーは、ちょっとばかり繊細なゲットーで自己発見をしたけど、そこから出ていこうとやっきになっていたのさ。”

 マグワイアがレッドを演じることへ頭を切り替えることも、よりたやすかったことだろう。なぜなら思春期において、マグワイアは一人でなんとかやりくりするよう、いろいろな理由で大人に放っておかれたのだったが、この時期に彼が自我を確立したという背景が、レッドと相通ずるものだからである。そう、マグワイア自身が。18歳のウエイトレスと20歳のコックの間に生まれ、二人はトビーが出来てから結婚したのだが、すぐ離婚してしまった。マグワイアは子ども時代を絶えまない引っ越しに費やし、母親と共に、また父親と共に、叔母と共に、母親とその新しい結婚相手と、または彼らとのいろいろな組み合わせで、南カリフォルニアじゅう、オレゴン州やワシントン州じゅうを転々と住み替えた。
”僕は自分自身が育てたようなものさ。”彼は言う。
そのことは、私達に、彼の本能的な部分を想起させる。

 6学年の時、マグワイアは学校へ行く前に決まって体の具合が悪くなった。新参者であるということが、彼をそういうふうにさせたのだ。
”僕はもうそれ以上、うまくやっていけないところまで行ってしまってた。また引っ越すなんて考えられなかったよ。”
14歳で、彼は学校へ行くのを拒むようになり、事実上、授業は出なくなってしまった。

 ”母は、僕を説得しようとした。僕に言ったものだよ、「よく聞いて。学校の人と話し合わなきゃいけないわ。」”マグワイアは思い起こす。
(ああ、あなたが、彼の若く疲れた母親が、学校職員に意見を聞いて精神的に参ってしまう場面をイメージするのは、心が痛むようなことだろう、親として)
”僕は言った、「いいよ、そうすれば。ずる休みに文句言う先生たちを連れて来てよ。あの人たちに出来ることなんて、なんにもないんだからさ」僕は正しかったよ、何も起こらなかったからね。この時から、両親は、僕に対して無力になった。やりたかったら、僕は何でも出来たんだ。”

 28という年令にもかかわらず、彼の声にはいまだ子どもの空威張りを含んでいるような響きがある。このことは、躾けたり、気を使ってくれるような親がいなかったという、とてつもない寂しさを、彼が寄せつけないようにしていた名残りだと、考えずにはいられない。彼は成長するにつれ、両親に対して抱いていた恨みはすべて水に流したというが、マグワイア一家が『スパイダ−マン』の上映を見た後、どれほど父親が感極まっていたかということを彼が思い返すのを聞いていると、まるで彼という息子の方が、逆に父親であるかのように思われた。
”父は誇らしげだった。”彼は思い出す。
”よかったと思ったよ。父に、そう思わせてあげられたからね。”

 マグワイアの子ども時代の転換点は、11の時、自身が舞台に立つことを夢見ていた彼の母親が、料理の授業の代わりに、100ドルを上げるから、ということで演技の授業を取るようすすめた時だった。
(彼はコックになりたかったのだ、実際、この日の夜、彼は仲間のうちの一人とレストランの場所を探しに行くところだった。”僕は、最高にうまいピザを作るこの男を、ニューヨークから連れ出そうと思うんだ”マグワイアは言う、”ここでレストランをやりたいんだよ、そうしたら、ロスでその最高のピザを食べられるからね”)
 マグワイアは天職を見つけた。彼は、通信制の教材による自宅学習に変えることで、自分の思い通りに『いかさまをして』まんまと高校1年で学校をやめた−−
[自宅教育で全てが解決したわけだ;家庭教師や親が、彼を正しく教育するということで]
−−そうして彼は子役のオーディションに精を出し、走り回るようになった。彼はいくつかのテレビコマーシャルを撮り、短期間のシリーズものに出たりした。そして22歳の時、『アイス・ストーム』で、道徳的な観点のみに重きを置く青年役の、繊細な演技で初めて、批評家たちの(また、優れた監督たちの)目を捉えた。彼の最初の主演作『プレザント・ヴィル』は1年後だったが、この作品の中で彼は『がんばれ、ビーバー』(注:1950年代後半の連続テレビドラマ。幼い兄弟を中心にしたホームコメディで人気があった)のようなドラマを通じて、うわべだけは牧歌的な、過去の世界に入り込んでしまうという役を演じている。共演のリース・ウィザ−スプーンが語っていたのだが、彼女が初めてマグワイアに会った時、彼は気に病む胃を押さえ、床の上で身をよじっていたそうだ。



**トビー・マグワイアはフェミニスト**

 ”さっきの、うんざりして言ってるように聞こえた思うんだ。ほんと、嫌な気分にさせたね。僕が言ってること、わかってくれるといいんだけど”マグワイアが私に話しかける。2時間というもの、私は彼と過ごしたが、彼がこのうんざり、という言葉を使ったのは、4回もなかっただろう。彼は、自分がうんざりして言っているように聞こえなかったかと、謝ったのだった−−何様のつもり、とこちらが嫌になるほどだったのではないか、と気にして−−彼が、ロスにレストランを開くつもりだという話題に触れたときのことだが。
”ピザが食べられる、って言いたいだけなんだ。”
 彼の出演作が、なぜほとんどみな素晴らしいものばかりなのか、ということを考えてみると、一次元的にしか物事を捉えていない作品が要求する、どうにかして妄想を掻き集め、自分を奮起させるというようなやり方は、彼の中に無いからだ、と思える。
”僕自身がハッパをかけて、自分を仕事に追い込むなんて出来ないよ。プライドの持ち過ぎなのか、自分を批評的に見過ぎるのか、それとも、ものごとを真面目に考え過ぎるのかもしれないね。自分がバカな真似やってるような映画なんて見てられないし、そんなのはうんざりするよ。”

 うんざり、もちろんそうだろう。うんざりさせられる、意味は−−
辞書によると、[吐き気を催させる、嫌悪を感じさせる、または、不愉快にさせる]
−−ということだ。それは、比較的根源的な感情であるし、おそらく、餓えや渇き、性欲という単純なものどころか、文化全体にわたる普遍的な感情であるだろう。

 今、この俳優をうんざりさせている事柄といえば、彼が親友のレオナルド・ディカプリオの、いわば’Pussy Posse/プッシィ・ポッシ’(訳注:元は、「売春婦取締班」という意味)の一員であるという内容を、ゴシップ記事で見つけたことだ。その名称には、まあ、たいした意味はないのかもしれないが、伝え聞くところによれば、彼らは2、3年前ほど前にクラブや女性達をめぐって好き放題騒ぎまくり、おかげで通達を受けることになったのであった。マグワイアに尋ねていた時、私はうんざり顔かうらやましげな顔をしていたのかもしれないが、私はその記事が仮定した行動についての騒動を全て把握しているわけではなかったし、この質問をしていることに、彼がどのくらいうんざりしているのかさえ測りかねていた。 :みんなが、20代の早い時期にやるようなことでしょう?−−パーティーをして、一夜限りの関わりを持つことなんて。許されることだと思うわ、ガールフレンドやボーイフレンドたちの間で『浮気したりされたり』するなんてことはね?(「ボストン・パブリック紙」によれば、マグワイアは『プレザント・ヴィル』当時、、女優のラシーダ・ジョーンズ、<クインシー・ジョーンズの娘>とステディな関係になっていた。)

 ”確かにね”彼は答える。
”だけど、そんなふうに書くなんて腹立たしいよ。女性に対して失礼だ。真実でもないことを山ほど持ち出してる。読んだ人は、そんな名称を使って書かれた記事の意味を想像し始めてるてるところさ。”
”ひどい悪人にされてるイメージで喜んでる男たちが思い浮かぶわね。”わたしは答える。
”そうなんだ、それが、どんなに典型的なひどい男のタイプだとしてもだよ、−−たとえば、性的に欲求不満を抱えてて、そう、自分が普通のちゃんとした人間だと思えたことが無くて、ね、で、女の子と付き合うのに成功したこともなくて、人生全体が抑圧されてるように感じてたような。そして、何か別なもので認められる自分の価値を必要とし、皆にその価値を知らしめたいと願うっていうようなタイプの男だとしても・・そんな書き方は腹立つよ。・・・だって、人生ってそんなことで説明できるもんじゃないんだから。”

 やれやれ。一方では、私はこの男性は、抗議をし過ぎではないかと思った。だがもう一方では、雑誌やタブロイド紙などで、ゴシップの元となる火種を日常的に隈なく捜し回られているということが、どんなにいらだつことか、というのも想像することが出来た。この悪名高い、移り気な、無数の噂が流れるハリウッドで、もしかして、自分の地位を脅かすことになるかもしれない、というような話題となれば言うまでもない。

 ゴシップ合戦における最新の話題で、また別のタイプの悪質な記事だが、『ニューヨーク・デイリー・ニュース』の記者たちは、6月に次のようなことを報じた。
[トビー・マグワイアは、日曜の夜に体の中身を吐き出した−−それは映画のシーンでは無い。”信頼のおける”情報筋によれば、ユタ州パーク・シティのあるクラブで、”彼は頭を脚の間に突っ込んでいた”]
などなど。この症状が、流感なんかではなく別のものだ、というあてこすりであったため、マグワイアは繰り返し、自分が19のときに飲酒はやめて、それからずっと酒も麻薬もやっていないと説明したものだ。
”少しは、自分でクスリをやったりしてたさ;そのことはおおげさになり過ぎないように言いたいんだけど、僕は19で他のみんなもやってたからね。僕は自分の夢を実現に向け始めたいと思ってた、それは狂ってることだったかもしれないし、破滅的なことだったかもしれない。”

 おそらく、マグワイアが「ページ・シックス」の魅力的な呼び物になった理由の一つは、ゴシップが全く無し、なんていうのは困った事なのに、普通のインタビューでは、プライベートの話題や、また女性に関する話題となると、彼がほとんど何も答えない、ということにあるのだろう。彼の現在の恋人は、ユニヴァーサル・スタジオの会長、ロン・メイヤ−の娘、ジェニファー・メイヤーであるが、彼女が姿を見せた時も、彼は私達を引き合わせようとはしなかったし、彼女について話したくもないようだった。(しかし、ゲイリ−・ロスはこう語った、マグワイアは「ジェニファーと一緒に居てとても幸せだ」と。ふたりには「深く固い信頼関係がある」と。)
いいわ、じゃあ、女性がセクシーなのってどんな場合かしら?私は尋ねる。

”その人自身の本当の姿がわかったときかな。不幸にも、僕にはそんな機会はめったに無いけど。”
あら、何言うの、ホーマーを見たとき、わたしの心臓は完全に止まるほどだったっていうのに。それなら、女性達は、あなたの中に何を見い出すのかしらね? わたしは続けた。個人的にじゃなくていいのよ、女性の観客は、映画のあなたに何を見ると思う?
”あぁ、えっと、さぁ、わからないよ。うぅーーんと・・わからないなぁ。”
マグワイアは、やわらかく微笑む。
”そんなことも考えないの? 1秒間も考えたことないってわけ?”
彼は笑う。”自分でそんなことに答えるなんて、すっごくヘンだよ。だって、普通そうだよ。”
”いいから、ハッキリ答えて”
”なにが聞きたいんだい?僕自身を分類わけするとか?”(ええ、お願い、なんとでも答えてちょうだい)
”一つ目は、シュワルツネッガー、ヴィン・ディーゼル、スタローン;で、次はクルーニ−、それに、だれか;そうして、その次に、僕、トビー、繊細で、人好きのするタイプ、・・なんて言ったりしてね・・。”

 マグワイアはその分類の中で自分の他には、感動的に瞳を見開いたような演技をするどんな役者も引き合いに出したりはしなかった。しかし、最近の彼の運命の巡り合わせはやっかいなことに、その分類の中でもおそらく2番目に成功している有望株の俳優、ジェイク・ギレンホールと縒り合わせられている。3月に、’ロサンジェルス・タイムズ’でキム・マスターズが最初に報じた記事はこうである。
 [マグワイアは手短に言えば、切なる望み、1、700万ドルの作品、『スパイダ−マン2』でギレンホールに負けた。コロンビア・ピクチャーの代理人と、『スパイダ−マン』の監督サム・ライミが語ったところによれば彼らは、特殊効果のために一日に何時間もボディ・スキャンをするような、映画の前準備のための責任をマグワイアが果たしていないということに対し、うんざりしているし、マグワイアの背中の調子が良くないことを深刻な問題としている。情報通によればマグワイアは、前述のユニヴァーサル・スタジオ<『シービスケット』の製作元でもある>のトップ、恋人の父親でもある彼に、ちょっとしためんどうを引き受けてもらうだけでなく、活発な働きかけをしてもらうことを、頼みの綱としている。”ひとつ勉強になったね。”彼はリポーターに語った、自分の態度が、映画の続編に出演する者として’妥当ではなかった’ことを付け加えながら。]

 私がこの記事を調べていて見つけた、少々’妥当ではなかった’と思えることは、要約してしまえば、サム・ライミが、『スパイダ−マン』公開時には、マグワイアへの讃辞をどんなにか高らかに謳っていたというのに、今度は彼を無責任にも突き放してしまった、ということである。しかし思うに、これがハリウッドなのだ。それにマグワイアは、ファンである私の憤慨を、分かち合うようなことは語ろうとはしていないようだ。
”僕にとって大事なのは、映画を作っている、ってことだけだし、そのことが、本当にうれしいんだ。”
(ここに記しておく:3歳の娘と私は、ピーター・パーカー、スパイディ、我らがピーターが、続編に出演しないというようなことになっていたら、悲しくて打ちひしがれてしまっていたことだろう。多くの批評家たちのように、私達は、『スパイダ−マン』の、前半部分を好んでいた。マグワイア演じるピーターが、新しく得たクモの力に対する恐怖や不安に、身を切るように取り組むシーンや、自分を責めさいなんで、メリー・ジェーンへの愛を公けにすることを拒むようになるシーンで彼は力強く、逆に特種効果のシーンでは静かに演じているのだ。)

 全体から見ればちっぽけな、小さなことだが、ギレンホールが、マグワイアの以前の恋人、メリー・ジェーン、別名キルスティン・ダンストとデートするようになったのは、マグワイアを悩ませたかもしれないが、マグワイアは再び彼女に手を出すようなことはしなかった。



**家族問題**

 リポーターたちの詮索好きな目から遠く離れたところでは、恋愛について、マグワイアは、今まで自分が演じたどんなキャラクタ−よりも情熱的で雄弁なのかもしれない。しかし、彼が最も生き生きとするのは、映画製作のことと、彼の古い子役時代からの友人である俳優が、活躍できるよう援助する話をした時であるように私には思われた。ただし、次の話題を除いては。
 私が促さなくても、何度も彼は、この話題に戻った。親の立場というものと、いったいぜんたい、どうしたら、仕事と父親業とを両立できるのかというということに。
”僕は、人生を、ちゃんとバランスの取れたものにしたいし、自分のやる仕事に全てを捧げたい。”
ちゃんとしたバランスとはどういうものだろうか?私が思うに、読者の方々は、俳優のような職業というものは、ひとつの仕事で何か月も忙しいこともあるだろうが、他の仕事に比べれば、長い休みを取れるものだと思われるかもしれない。

”だけど、本当に長い休みを取るなんて出来ないよ。つまり、それって、僕が子どもを持つのをためらってる理由なんだけど。”
彼は言う、私が知っている、働く母親みんなと同じような、子育てと仕事の板挟みによる苦悩の滲んだ声で。
”できっこない、ってわかってるんだ。僕は1日に14、5時間は働かなきゃいけない、1週間に6日もだ。その上、子どもなんて持てないよ。どうやったらできるんだい?”
しかし、他に道はないのだろうか?しっかりした職業というものは、同じように忙しいスケジュールになってしまうものだ。
”僕には理解出来てるよ、”マグワイアは慰めようもないような声で言う、
”それがどんなに大変か、ってことをね。”

 一つの選択としてもちろん、全く子どもを持たない、というやり方もあるだろう。今までずっとそれでやってきているような独身男性のジョージ・クルーニ−、彼は、少なくともリポーター達に語っている、仕事を愛しているし、男達と(また美しい女性達と)出歩くのを楽しんでいると。しかし、身を固める気があるとは思えない。私の中のある部分では、その選択の純粋さ、明快さを賞賛し、あこがれる部分もある。そのことは私に、『ニューヨ−カー』の常連、ケネス・コッホの、賢明でありながら滑稽な、ある詩を思い出させる。
[君は望む、友人とともにある社会的生活を/また、情熱的な愛の生活を/毎日の充実した労働を。真実はどこに/この3つのうち、君は2つ選べるだろう/そうしてその2つは君の取り分だ/けれど、断じて3つは選べない]
 しかし、わたしの考えはこうだ。彼がこの詩を知っていても、父親にならないことは、マグワイアの選択肢にはないだろう。彼は、自身の人生と、その人生における仕事というものが、『両親に捨てられた(マグワイアの言葉だが)』という感情によって深いところで形づくられてきたのである。この息子は、父親の(また母親の)誤りを正さねばならない。それ以外の事では、彼の内なるものが承知しないのだ。


By Laurie Abraham